2018.4.16 中国11日目 ー長春ー

4月16日、滞在11日目。現在、旧満州国の首都・長春。
午前中から偽満皇宮博物院へ。大日本帝国の傀儡国家とされる満州国皇帝・溥儀が1932年から終戦を迎え敗走した1945年までの13年間を過ごした御所だ。現在は博物館となっており、溥儀の妻や側室、また関東軍の官僚たちが溥儀や各建築物とどのような関わりがあったかが示されている。その女性たちの愛憎や関東軍の策略に対し清国再興の願いはあっても自身の意志ではどうにもならない溥儀の心情は痛々しい。中でもとりわけ関心を引かれたのは、三つの祈りの場だった。ひとつは中国大陸に古くから伝わる仏を祀った堂。もうひとつは清の先祖を祀った奉祖殿。そして満州国建国の元神とされた天照大神を祀った建国神廟。祈りは広く人間という生き物の原初的な行為であり、かつ個人の柔らかい心と接続する(と思う)。その祈りの場はそれぞれ残されており(建国神廟は敗戦後に破壊されているが、礎石は残っている)、溥儀が自身もっとも心を開くことができたのはどこだったのだろうと想像してみる。彼はそれぞれの場に祈りに立つとき、どのような思いでその空間と接していたのだろう。

こう溥儀に対して妄想を広げられたのも、これらの展示が客観性を以って溥儀という人物を淡々と描き出そうという「意図」があったからだと思う。一方で『皇帝から公民へ』と題された別組の展示では「民族の権益を売り渡し」「日本軍国主義者の仲間になり」「民族の罪人になった」「中国政府と中国共産党は、この民族を裏切った犯罪人を、死刑にせず、罪悪を悔いて行いを新たにし、身も心もすっかり入れ替えるように改造し、処罰と寛容、労働改造と思想教育とを結合する政策を取った。そのため、その生涯の後半は国家と人民に役立つものとなった。これは今までの世界史にない唯一の実例である」(『皇帝から公民へ』冒頭「前書き」より引用)と強く中国共産党政権の思想が反映されている。感じたのは権力が規定する絶対的正義に対する恐怖。なにかを絶対的正義とすることは、なにかを絶対悪と規定することであり、特に個人に対してそうする際に強い違和感を覚えた。たとえば日本にも正義と悪の観念はもちろん存在するのだが、その腑分けに国民全体として盲目となってしまうことに改めて怖さを感じた。

広大な展示会場をみてまわればあっという間に夕方で。博物院から長春駅へと進めば旧満州国時代の日本人住宅街に当たる。日本人街からの建物であっても、いまは異なる生活がある。かつては日本にゆかりを持つ誰かが住んでいたのだろう建物群の市場で遅い昼食を。その食堂のおばさんが気さくで「ああ、日本人なのね。ゆっくりしていってね」と声を掛けてくれた。