2018.4.8 中国3日目 ー南京ー

4月8日、中国滞在3日目。南京に移動するため、朝6時にいつもの市場で朝食を。パジャマ姿で食べに来ているおじさんもいる。もはや自宅のダイニングルーム。変わらず美味。名残惜しい。

さっそく上海駅へ、と思ったら最寄り駅が通勤ラッシュで混雑していて電車に乗り込めない。そう、昨日で清明節は終わったのだ。僕らは今回3人のチームで訪中しているが、離れ離れに上海駅へ向かうことに。上海駅は空港ターミナルのように広く、システムもそれと似ている。待合室も列車によってそれぞれ指示があり、発車の15分ほど前になると待合室前の改札口が開き、雪崩を打つように皆乗り込む。古風でかわいい列車。硬座はボックスタイプで、知らない人たちと対面しながら約3時間半で南京に到着。南京名物という鴨の血を昼食に食べて、ふらふらと散策する。

宿泊先は夫子廟に近い観光地。でも商売をしながら子どもの宿題をみたり、道にテーブルを出して家族でご飯を食べるなど、市井の暮らしも隠すことなく観光と共存していて、不思議な感覚を覚える。そして、日本語での説明文が多い。日本語としてだいぶおかしなことになっている掲示ばかりだが、南京大虐殺などを起こした日本からの観光客も意識していることに感じ入る。そして(もちろん色んな人がいるのだが)日本人である僕に対してもやさしい。

白鷺洲という池や回廊も有する広大な公園では、大音量でカラオケをデュエットする夫婦、花壇の中で素敵な衣装を纏って自撮りを重ねる女性、太極拳をしながら語らうおばさんたち、女性踊りをするおじさんなど、彩り豊かな面々で構成されていた。通行人ふくめ誰かがその行為を迷惑に感じ文句を言うでもなく、それならば自分も、というように各々が自由にその公園空間を活用していた。ジョン・ケージの《ミュージサーカス》を思い出す。そして、日本の公園規制もさまざまな歴史的背景はあるにせよ、少しは見習ったらどうかと思う。

観光地から一本入った路地には「暮らし」が充満していた。みな小道の両脇に品物を広げて商売し、肉に魚に野菜にとその場で捌く、まさに「生」を売っていた。写真を撮りながら歩いていると大きく声を掛けられた。中国語がほとんどわからないので、なんだろうと思っていたら写真を撮るなということだった。この路地での商売はすべて違法らしく、バレれば500元取られるとのこと。それは彼らにとってかなりの高額だろう。iphoneを見せながら撮った写真を消す。それでも彼女は納得できないようで、それ以前の写真まで確認を求めた。彼女は怒っているというよりは、必死だった。売っている「生」とは彼ら自身を含んでいる。生活の重みが感じられた。と同時に、そうした環境に置かれたことによる他者への疑心も感じ取られた。どちらが善か悪かといった単純な二元論ではなく、公園で自由を謳歌していた人々と比して大きな違いがある。そしてリサーチする側としては、こうした人たちとやり取りできる最低限の言語を自身で身につけなければ成り立たないことも再認識させられた。

この一件はリサーチに限らず、芸術活動における大事な観点を孕んでいると思う。引き続き彼女の、あの瞬間の表情を思い出しながら考えていきたい。