4月17日、滞在12日目。かつての南満州鉄道に乗って長春から瀋陽へと南下。
12日に会った、北京でアーティスト・イン・レジデンスを運営しているSong Yiが、瀋陽のアーティスト・YuanyuanにWeChat(中国版のLINE)で繋いでくれる。瀋陽の街を案内するために宿まで車で迎えに来てくれるという。僕は外で使えるWifiを持っておらず、そして宿周辺は車の行き交う繁華街で停車できないから青いスバルを見かけたら乗り込め、というざっくりとした指示が送られてくる。「そんなんで会えるんかいな」と思っていたら青いスバルの車内から手を振る厳つい男が。Yuanyuanだった。
瀋陽の街は長春より華やかで、かつ長春と同じく日本の人が建築した建物物が多く残されていた。だが、Yuanyuanの口ぶりからすると意図して「残されている」というよりは「残っている」と言ったほうが適切なようだ。古い建物は住み手がつかず、歴史的背景や建造物としての特徴のない建物は次々取り壊されているという。瀋陽も、上海や北京といった都市と同じく円環道路を樹木の年輪のように外へ外へと次々に広げていくことによってその規模を拡大している。清朝時代は瀋陽故宮を中心に中国の人が住まう地域が発展し、日露戦争以降その利権が日本に渡った南満州鉄道を起点とした周辺開発で瀋陽駅から続く日本人街が、と別離に形成されてきた街・瀋陽。いずれにせよその規模は小さく、Yuanyuanが生まれ育ったこの36年の間にもずいぶんと変わったという。
Yuanyuanによる瀋陽ツアーもさることながら、どういった暮らしぶりがこの街であったのかという彼の話は興味深い。彼の祖父母はいまも日本語を喋れるという。それは戦中の植民地主義の影響かと思いきや、20数年前まで学校教育として日本語を学ぶ時間が組まれていたとのこと。彼自身、小学校に上がる前のプレスクール(という幼稚園とも異なる枠組みが中国にはあるそう)で日本語を学んでいた。また、日本の漫画を専門に扱う古本屋もあったらしく、彼は放課後毎日のようにそこへ通ったらしい。旧満州国がおこなった開発によって助かっている面も多々ある、とも。実際、旧満州国があまり手をかけなかった山東省ではいま教育機関が少なくて困っているという。東北部は戦中に空爆を受けていないなど歴史的背景が異なるため、同じ中国といえど、南京や上海といった南方とは「あの戦争」の受け止めがかなり異なると彼はいう。
また、瀋陽には日本からの高齢者がよくやって来るという。この街に暮らした若かりし日々を懐かしんで死する前にと帰ってくる。身体が利かなくなった人は代わりに子孫に来てもらい、自身の子や孫が感じた瀋陽をことばで伝えてもらう。これはひとつの「巡礼」だと思う。かつての自身やその頃の自身を取り巻いていた人たちに「会い」にいく行為。もちろんあれから70年以上を経ていて実際に会えるわけでもないが、それだけの情念を生む暮らしがこの街にはあったのだ。