アジアに沈む「沈黙」にきく。

芸術のいち役割として、いかに現時点的な時代の思想を批評していけるかという観点がある。先の大戦や原発事故など、我々は歴史の転換点となるべき場面場面に際して場当たり的に対処し、メディアやときの政府に促されるままその事象の根源や周辺を軽んじてきた。

しかしこうした大きな社会課題に真正面から当たれば、たちまち「正義vs悪」といった二元としての討論に陥ってしまう。また自身の立場から規定される「悪」を安易に排すれば、ある種のユートピアを形成することとなり、思考は止まりかえって危険だ。

芸術という抽象を施した世界にその事象を映すことで「対話」となる、皆が乗れるプラットフォームとなる。過去はそのように皆のものであり、それは演劇という媒体の根源もしくは革新である。そこにこれまで提示できなかった可能性を皆で見出したい。

たとえば、太平洋戦争は終戦から70年以上が経過し、個別的であったその記憶が集団としての歴史に転換しつつある。歴史は強者によってつくられ、強者によって改変/継承が為されていく。こうした個別的記憶を未来へと発展的に共有/継承できるとき、はじめて強者による歴史に溢れた死者も報われるのではないだろうか?

だが、この試みはとても危険な賭けでもある。死者はことばを発せず、「発展的な共有/継承」も現代に生きる我々の恣意に左右されるからだ。一方それを踏まえても、その個別的な記憶/沈黙へ丁寧にアプローチし、耳を傾けようという試みは現在こそ重要だと考える。死者の沈黙からなにかを立ち上げられるのは生きる我々のみである。つまりその際に作用するのは我々個々人のもつ記憶である。我々はその死者たちに触れていた世代なのだ。

『アジアに沈む「沈黙」にきく』。民俗芸能的な思想を多分に含んだタイトルであるが、これは欧米由来の理性万能主義や合理主義、またそれを基礎とするアクチュアルな課題を捉え直す契機ともなろう。先はかなり長いだろうが、アジアに沈んだままとなっている多数の死者たちの沈黙に耳を傾けるべく、多様な人たちと出会い、対話や実験を重ねながらじっくり進めていきたい。